最近色々と新しいことを覚えています。
「オワコン?ああ、終わってるコンパのことでしょ。」
と涼しい顔で言っていた桜も咲かない25の桜月。
どうやら「終わったコンテンツ」のことらしいですね。また1つ学びになりました。
分からない人の為に例文を。以下のように使うらしいです。
例文(1)「あれってオワコンだよね^^(ケラケラ」
例文(2)「オワコンなめんなゴラァ」
例文(3)「オワコンワロタwww」
※よく分からなければ(3)を言っとけばセーフ。
まぁ実際のところ別に「終わってるコンパ」だと思っててもこの先の人生そこまで支障でなかったかなーなんて思いながらも、この度、正式な名前の意味を覚えてドヤ顔で「オワコンの意味しってる?知ってる?」とか言いまくってますよええ。
そんな流れもあってか、ふと会話の中で
「うーん、あの人はオワコンだよね。」
という言葉が聞こえたり。
なんとなく気にならずに流していたけれども、「オワコンか否か」を判断軸に据えて物事を見限ったり取捨選択するというのは、実はものすごく危ういんだなぁと。そんなことを、これから僕の絶品炒飯の一部になろうとしている賞味期限がきたタマゴを見て思ったりしたのでした。
「人がコンテンツだ」みたいなことはこの個人メディアがお盛んな時代の中よく言われることですが、「オワコンか否か」というものすごく表面的な視点でしか人を見れなくなっていくというのは凄く残念なことだなぁと。
気がつけばいつのまにか某テレビ局のプロデューサーのように烏滸がましくなり、本当に大事なものは何かと問う事も無く、つい”規模”を求める拡大思考へとシフトしていってしまう。見る人があってこそ成立するコンテンツを扱う立場の人にはいつもそんな危ない落とし穴があるなぁと。もちろん僕も広告業界に居るので「オワコンなんてスルーしてイケてるやつを利用してやるぜグヘヘ」というのはあるわけですし、それがそれで駄目だという事では無いのですが。だって、ツールですからね。
ただ、実際、「オワコン」になったのは、コンテンツとして過剰なまでに評価され誇大化されたメディアが喜ぶ「見せかけの価値」の部分が消費されてしまったからで、そこに昔からずっとあった価値はあんまり変わってないことの方が多いんですよね。別にモーニング娘だって不細工になったわけでもなく、ダンスや歌が下手になったりしたわけでもなく。
そんなことを考えていてふと思ったのは、秋元さんはいつか
「AKB、もうオワコンだよね。」
「もういいよ、AKB。次々、次いこーぜ」
と言うんだろうか、ということ。
「AKB48の経済学」(あくまでも当人が書かれたものではないけれども)の中で書かれていたように、テレビがコンテンツを育てる=視聴率至上主義の時代の中で生まれて来たコンテンツは、メディアの力によって誇張され膨張したバブル的価値を伴っていて、それらはいつ消えてもおかしく無いが為に、ものすごいスピードで消費されていく(させていく)傾向がある。ぶっちゃけ視聴率なんて水物だし、たった1つの小さなことでそれはガタ落ちもするし、そこで生まれてくるものの多くは「ブーム」でしかない。だから、そこで生まれたコンテンツは、数年立てばボロ雑巾のようになっていて、視聴率が取れなくなってはポイッとされる。
メディアがある限り、「オワコン」は何かしらの形で生まれ続けるんでしょうけど、それでも、僕は、「オワコン」になっても変わらない価値がそこにきちんとあって欲しい(育っていて欲しい)と思うし、同時に、その時にその変わらない価値を見つめ続けられる人がいて欲しい(そしてそんな人でありたい)と思うわけです。特にこと人に関しては。(AKB48の熱烈なファンではないですけれども)
そんなことを色々と考えると、たぶん「コンテンツ」というもの自体危ういんですよね。光あるところには影があるといいますけど。しかも、人がコンテンツになりやすくなった時代なんてね。いいところもあれば、悪いところもある。まぁ、あたりまえなんですけど。
そんなわけで、キッチンの隅にたたずむ、この世にヒナとして生まれてくる事も出来ず、賞味期限当日まで無惨にも放置されたこのタマゴを見つめ、「大丈夫お前のその変わらない価値をきちんと生かしてやるぞ」と思いながら、僕は今日もまたフライパンをふるのでした。
P.S.最近料理を始めたのですが、浮き足立って肉じゃがとかに手を出したら、クラブにいってモテたからと味をしめて男遊びを始めるビッチと変わらないんじゃないか?とふと不安になったので、当面炒飯だけをつくり続けることにしました。(別にそんな女性が駄目だというわけではないですよ。それはそれでまた性的魅ry)